「マウスの記憶」

2020年より緩慢と続くSARS-CoV-2によるエピデミックと異常気象、追い打ちをかけるように2071年「神ノ紙」によって引き起こされた世界規模のサイバーテロとEMP攻撃のターゲットとなった世界の原子力発電所のおよそ8割が制御不能となってから50年が過ぎ、遂に人類の総人口が30億を下回ったと号外が飛び交う2121年7月13日、人々は否応なく豊かで牧歌的ではあるが無気力な"新しい日常"を過ごしていた。

函館は七月盆の真最中、時任町にある本門寺の納骨堂を抜け出した付喪神「馬面染ミ坊主」は、至水の遺品の中に見つけた鈴木章弘宛の封書に書かれていた住所へと向かっていた。

至水が住んでいた函館の上新川町は、2040年に北海道で確認された176種目の変異株による超大規模クラスタの発生により、強制隔離地域の一区画に指定された後、ここ数十年は新規転入者も居らず、ただ朽ちていくのを待つ空き家ばかりが建ち並ぶゴーストタウンと化していた。

「此処だ、薄っすらと記憶に残っているこの匂い…」
封書に書かれていた住所と思しきアパートの一室ドアの横、郵便受けの隙間から滑り込んだ馬面染ミ坊主は匂いを辿り居間を抜け、奥の部屋に進むうちに思い出す。
「鹿角の匂いだ」
作業部屋だったであろう一室のドアを開けると其処には、降り積もった鹿角の粉塵、ダイヤモンドバーの当て過ぎで鹿角が焦げた独特な匂い… と、もう一つ察知したこの匂いは、自分と同じ…

部屋を見回すと彫刻作業台の傍らに設置されたPCデスク上にある小さな塊が突然声を発した。
「おいおいおいwww 初めて見るぜオレ以外の、付喪神だよな? 匂うんだよ付喪神臭がよwww」
球状に丸まりユラユラと揺れる元レーザーマウスの付喪神は、初めて同類に出会えた高揚を隠せない。

馬面染ミ坊主
「其処の丸いの、此処は至水の作業部屋だろう、おまえも至水に使われていた道具なのだな、至水について憶えていることを、至水の根付のことを教えてくれまいか」

丸いの
「オレは見ての通りのレーザーマウスだ、アイツが初めて手に入れたPCと一緒に揃えたヤツよ、そーだな… 2年位使われてたわなぁ、そしたらあの野郎無線マウスに買い替えやがって有線のオレはお払い箱だ!引き出しの奥に片付けられたまんま忘れられたんだぜ? だからアイツの根付なんて最初の二つくらいしか見たことねーのよwww」

"丸いの"は尻から伸びたケーブルを手繰りながらごろり転がると
「見ろ!腹いせにケーブルの先のUSB端子を引きちぎってやったんだぜwww」
そう言って千切れたケーブルの先端からフサフサと靡く極細のワイヤーの房を自慢げに見せびらかした。

手掛かりになりそうな話は聞けそうになく、どうしたものかと思案する馬面染ミ坊主の困り顔に"丸いの"の嫌味な性分がくすぐられ…

丸いの
「あー、そう言やオレも真っ暗な机ん中で暇だからよ、ずーっと聞き耳立ててた訳よ、でな、アイツ此処から居なくなる前の数年間は中国への販路が太くなって、なんつったかな上海の根付バイヤー、あー、思い出した『元气造物』だ、もしかしたら至水の根付の現物、纏まった数あるかもしんねーよ?まーどーやって上海まで行くかは知らんけどなwww」

イラつく馬面染ミ坊主が部屋を立ち去ろうとした瞬間、玄関を開く音に続きドカドカと、幾つかの足音は作業部屋まで到達し、防護服に身を包んだ人間が3人、部屋の中を物色し始めた。
PCは勿論、液晶モニター、ゲーム機、リューターのコントローラーまでも、再生出来そうな電子機器を見つけては手際良くコンテナに収納していく。

存在を悟られぬよう物陰に潜み様子を見ていた馬面染ミ坊主であったが、いきなり眼前に転がり出た"丸いの"が人間に向かって叫んだ。

「オイ!オレも外に連れてけよ真っ暗な部屋はもう飽き飽きだっ!」

異音に気付いた一人が"丸いの"を持ち上げ、掌の上でUSB端子が千切れ球状に歪んだレーザーマウスを一瞥するや「派不上用场…」と毒づき投げ捨てた。

「あっ!」落下する"丸いの"を追い馬面染ミ坊主は思わず物陰から飛び出してしまった。
人間の目には妖怪の形を模したUSBメモリに見えたのだろう、拾い上げられた馬面染ミ坊主はそのままコンテナへ収容されてしまう…

数日かけ集められた大量のコンテナは函館港に停泊中の大型船に次々と積み込まれ、1週間後には中国へ到着する、そして上海で荷揚げされたコンテナ群は全て深圳の再生プラントへと運ばれる。

付喪神は海を渡り、馬面染ミ坊主は中国に来た。

来てしまったのだ…