今回の展示について
橋本:ギャラリー花影抄の橋本です。佐野藍さんのアトリエで「個展RANGE」について、お話をうかがいます。今回の展示のメインビジュアルが「蛇と合掌された手」の図像のような作品で、とても新鮮で印象的です。展覧会に込めた思いや、制作のきっかけなどをお聞かせください。
佐野:私自身が日頃生活をしていく上で、人と人の関係で良いことも悪いことも全部含めて起こる「事象」のいろいろな意味合い、懐の広さ、曖昧さにフォーカスをあてた制作と発表です。
橋本:今までの発表「アルビオンの陽」や「ANIMA」の表現でもテーマとして、佐野さん個人の状況や気持ちは込められていたと思うのですが、今回は、より複雑な身の回りの出来事、考え方など、具象でないものを具象で表現することなのでしょうか。
佐野:具象じゃないものを具象化することは、じつは今までと同じで変わらないのです。ドラゴンなども自分の中にあるファンタジーを具現化するというもので、どういうファンタジーを扱うか、それが今回、ちょっと変わっただけなのです。
橋本:一般的なイメージで言うと、「ファンタジー」とは夢物語・空想の世界のことですが、今回の内容は、現実に生きている人と人の間の感情などもまたファンタジーであると。
佐野:なにか、ファンタジーだとしか思えなくなってきているのです。同じ空を見たときにも、その空の青さを互いにどう感じているか?は、完全には分かり合えないですよね。それをいろいろな手段を使って分かり合おうとする過程によって、文化、表現、作品が生まれたりするのだと思います。それが私の中で必然的にこのタイミングで起きたという感じの個展です。
橋本:気持ちとか、考えというのは目に見えない、実際には可視化できない。そういったものすべてをファンタジーと呼んでいるということですね。
佐野:私はよくTwitterなどで自分の思いを言葉にするのですが、言葉にした途端に、自分のやりたいことと、結果が反転して現われたり、伝えたいことや優しさが暴力になったり、おせっかいになったり、そういうことが多々あります。それは、お互いのファンタジー同士の接点で現実世界を生きているからだと思うのです。自分と外界との摩擦、抵抗力みたいなものです。摩擦と言うと悪いことのようにとらえられがちだけれど、私は希望である良い方向にとらえています。摩擦からしか物事は生まれないと思っています。
今の規範社会の中で昔ながらの暗に設けられたルールがあって、どうしても何か違うな、と思ったときに、なにがどう違うのか、一つずつ確認していかなければなりません。分かり合おうとすること、その過程はとても大変なことなのです。周りの人も自分も大変ですが、それが自分の生きる上での誠実さなので「申し訳ない」と思いながら生きていく、そういう自分が生み出した、自然に生まれた彫刻作品の展示です。
橋本:誰にとっても無関係ではない展示内容ですね。すべての人に関係がある。
佐野:それを言葉にして強いると暴力になってしまうので、彫刻にして置いておけばよくて、そして気になる人には来て見てほしいです。表現というのは、本来そういうものだと思います。
私たちの世界
橋本:最初の作品「私たちの世界」を最初に拝見したのは2019年。この展示構想は、実はもっと早くに取り組み始めていたのですよね。一見、可愛らしい猫が手のひらに乗っている図です。
佐野:これは私と大地との摩擦、スケールの話です。
このアトリエのある地域が2019年の台風19号によって、川が増水、土砂災害が近隣で起きるなど、大きな被害がありました。家が浸水したり、道が壊れて交通手段に影響が出たりしました。(それでその年の展示予定が変わってしまい、この発表になったのですけれど)。自分は平たい場所に住んでいる感覚でいたのですが、それは自分のスケールでしかモノを見ていなくて、鳥が見るような感覚でみたら、ものすごい斜面に建っていて…視点の差異に気づいたということがあります。
橋本:アトリエに来る途中、すごい坂道をずっと上ってきましたものね。
佐野:それで、そのときにパッと家で飼っている猫のことが頭に浮かびました。猫を飼っている方は同様の感覚をもたれたことがあるんじゃないかと思いますが、猫のスケール感がわからなくなってくるときがあるんです。それでふっと見たときに、自分の手のひらにちょこんと猫があるような、ちっぽけなこの仔の人生(猫生)すべてを掌握しているなあと感じることがあります。そして、その感覚は、自分たちもまた山に居て、「山に掌握されちゃっているなあ」と感じるのと同じで、これは彼女(猫)だけの問題じゃなくて、私でもある。そういう作品です。
アルビオンの喪失・復活
橋本:これは花嫁衣裳ですよね。女性が花嫁衣裳を纏っていて、光のようなものが射している。
ご結婚されて、この集落に来たそのタイミングでの制作プランが始まったのですか。
佐野:正直なところ、この像は作り発表するかどうか悩んだ作品です。
この白無垢の像は自刻像なので、本当は恥ずかしいし、作りたくないながらも作らなきゃという感じでした。
橋本:白無垢の花嫁さんに光が射しているかと思いきや、一部が矢になっていたり、背中に刺さっていたりします。
佐野:どのようにとらえていただいても良いのですが、普通「結婚」というのは、すごい!おめでとう!ということですが、この数年で家族の死にいろいろと向き合ってきた身としては、どうしても終わりが見えてしまう、終わりの始まりでもあります。作家としてもいろいろ言われるかな?とか、そういう被害意識的なことも考えましたし。結構な覚悟だったのです。作家活動を続ける中でも「結婚したら女性作家は駄目になる」とか耳にはいりましたし、いつのまにか自分の中で「結婚」は重くのしかかっていて、この像に取り組まざるを得ない状況がありました。
橋本:変化の激しく大きい時期でしたね。
佐野:このアトリエの環境に越してきたのは2018年の暮れで、都会育ちで独身だった私が、山間の集落社会の中に新婚で入ってきました。そこで、周りの世界との摩擦が起こります。喧嘩をしたわけではないですよ。ただ単純に違うわけですよ。周囲の方々はとても良くしてくれているし、受け入れてくれているけれど、このままじゃ本当の自分ではいられないと悩みました。みなさんに対しても敬意があって仲良くしたいけれど、上手くできなくて苦しむのですよね。消化できなくて、そのときに殴り描きしたドローイングが今回の展示のきっかけになりました。
橋本:ここは周りが山、森ですね。鹿や猪がいて、畑を耕して暮らしている方がたくさんいて。山間の集落ですね。そういう土地です。昔からの慣習や風習、共同体の中の暗黙の常識がある。そこに新婚でアーティストの佐野さんが引っ越してきて、そこで文化のギャップ、摩擦が発生するわけですね。
佐野:「女性だから」という言葉がはじめにきて「なになにをする」という言い方、たとえば洗濯物を干す、結婚したら子供を産むだとか、自然にあると思うのですが、私にとっては全然自然じゃない。「女性だから~」という言葉は相手も傷つけたくて言うとかだけではないと思うのですが、本当の自分ではなくて、女性という括りで相対されて自分のアイデンティティが霞んでいく。個人の能力、何が得意で何が不得意かというのは、性別に関係ないはずなのです。これは集落という環境だけではなく、作家活動の中においてもですが、自分の能力について「女性だから」という言葉で、個人のアイデンティティについてぼやかされてしまうことがあります。
橋本:そうですね、男性でも家事が上手だったらやったらいいし、女性でも力が強かったら重い物だって持ったらいいですよね。
佐野:そんな中で私は危うく自分を見失いはじめていました。だからそれをどうにかしたくて私は叫ぶのですが、それは気をつけないと被害妄想として処理されてしまうのです。けれども、私は世の中に被害妄想って存在しないと思っています。それはなぜかというと、みんなお互いの感覚・ファンタジーの中で生きていて、その中で感じたことはその人にとっての真実なのですから。ただ、そういう辛い被害意識は、なにかしらの状態で自分が昇華させなければいけないファンタジーです。そうしなければ誰かと分かり合いたいと思ったときにマイナス感情からのスタートになって攻撃的になってしまうからです。そうすると本来自分が望んでいたような行動ができない(分かり合いたいのに争ってしまう)。そういう状況はあらゆるところで起きていると思います。
それで、私は被害妄想と処理されてしまったファンタジー、昇華させなければならない自分の被害意識をなんとか墓石として残してあげたかった、それを置いて先に進みたい!というのが、今回の展覧会です。
橋本:なるほど「外界からの被害意識を墓石として残し、再び向き合うために解脱する」。今回はそういう意味合いの展示だったのですね。
佐野:この「アルビオンの喪失・復活」という作品制作をとおして、自分のアイデンティティが守られてきた環境を再認識しました。私の自己肯定感が高いのは母のおかげだったりして、その母も亡くなってしまって、そういう意味で私は本当に社会に出たかもしれません。守られてきた繭から出た、そのタイミングで結婚もして、まったく文化の違う価値観と触れる機会が増えた、その状況を表しています。
橋本:この作品は、佐野さんの守られていた世界の喪失と新しい世界との向き合い方の決意宣誓、はじまりですね。本当に、この白無垢の像にはハッとします。大きな作品ではないのですが、詰まっている感じがある。これを通じて、いろんな人とさまざまなコミュニケーション、意見交換や話の場ができるとまたいいですね。
My [your] eyes
橋本:驚きの人物像、頭像ですね!これはだいぶ衝撃的です。佐野さんがまさか人を作るとは、新鮮な気持ちもあったのではないですか?しかも普通の人じゃない。蛇と顔。キメラというか、イメージが何層か重なっているように見えます。
佐野:人物の顔を作るのが大学2年生のとき以来でしたが、結局、動物と変わらない、人間も動物です。人としてのリアリティというよりは、自分が言いたいことのビジュアルに適切に作りました。いわゆる人体像のリアルとは違う造形です。
橋本:本当に不思議なイメージです。強い意味やメッセージが込められているのでしょうね。
佐野:先ほどからお話ししている被害意識というものと通じています。
私は、人から言われた言葉がいちいちショックで、自分の中に侵食してきやすいタイプで、小さいときからの悩みでもあるのですが、それに反発するための力がどんどん鍛えられ強くなってしまっているのだと思います。
学生時代、作業場が誰からも見られるような開放的な場でした。先輩が喫煙所で、ぼーっと景色を眺めているだけなのだと思いますが、自分に向けられた視線のように受けとって恐いと感じてしまったりしました。実際にいろんなことを作品に対して言われてしまった経験もあったから、そうなっているのですけれど。外からの圧力から自分を守るために、自分からも圧力を出さないといけなくて、反応や言葉がすごく強いものになってしまいました。
作家活動を始めてからずっと、結婚して自分を全否定されるかもしれないことへの恐怖もありました。本当に心細かったです。ジェンダー的な問題についても、フェミニストになりたいということではなくて、一個人として、作家としての自分を守らなきゃという姿勢でずっといます。自分が、そういう過去の経験から積み上げられた被害意識で出来上がったメガネで世の中を見ているのだと気づいたのが、制作のきっかけです。これは、コブラのメガネになっているのですけれど、毒があるというか、いつも緊張している目です。
橋本:危険が迫ったら、一瞬で攻撃するぞ!という緊張したコブラのメガネになっているのですね。
佐野:そういう目で世の中を見て、Twitterなどの単語や言葉の意味をいろいろ受け止めてしまいます。今、女性に限らず男性も、自分のアイデンティティを表層的なレッテルによって侵害されている人は、みんな多分コブラの目を持って言葉を受けているのだと思います。それで何かを主張したい人というのは、はじめは恐さを抱えている自分の立場を守るための、どちらかというと心細い声だったのに、結局みんなコブラの目だから、防御以上にコブラ同士でお互いに攻撃してしまうのですよね。つきつめれば被害者であることは、加害者にもなっているかもしれないということです。
橋本:この像、後ろにも何かいますね!
佐野:後頭部に野犬が隠れていて出てこようとしているのですけれど、本当は弱さを抱えているからこそ牙をむいてしまうという人々の姿、これはそういう像です。
橋本:コブラ自体も緊張していなければ頭部も広がっていなくて、普通の蛇みたいな姿なのですよね。今は、常にSNSなどから外界を受信していて、どんな言葉がいきなり自分に入り込んでくるかわからない、そういう常に緊張を強いられている状態というのは、私自身もあります。
佐野:今、一番大事なのは、そのコブラの目を持っていて心には野犬がいる人々が、世の中にいっぱい生きているということをわかってもらうことです。もう孤高の精神に達している人であったら気にならないようなことなのだろうと思いますが。
橋本:そう、悟るというやつですね。
佐野:でも、普通に生活することもままならないようなコブラと野犬を飼っている人もいるのです。私は制作などで昇華もできますし、割と前向きにはとらえようとしていますが、そういうこともできない人もいると思います。
橋本:この頭像は、多くの人が被害意識をもって常に緊張している状態で、社会の中で生きていることを表現しているわけですね。
佐野:もし、ジェンダー的な意識などに少しでも関心や関係があってなんとかしたいと思うなら、人は皆、被害意識の固まりとして誰も彼もが生きているということを考えなくてはならないですし、そこに私は向き合いたいです。
いっぽうで、そういう感受性が自分には無いと自覚している人も傷ついていると思うのです。寄り添ってあげられないこととか、その気持ちをわかってあげられない、それはそれで苦しいわけですよ。どうやって接したら良いか、触ったら良いかわからないわけですから。
橋本:緊張姿勢のコブラにですね。
佐野:お互い気持ちを開示し合って経験として蓄積していく、そうすると分かり合えはしないけれど隣接しあえますよね。その先の多様性のある未来の在り方を思います。
RANGE
橋本:この象徴的な大作。カッコイイ蛇の姿。ビジュアル的にも佐野さんだな!と思えるし、合わさった手の図から新しい表現世界も感じさせる。皆さんが見てきた佐野藍の作品と今を繋いでくれる作品です。これは、合掌している図かと思っていましたが、よく見ると違うのですよね。他者同士の手なのですよ。頭の中で合掌のイメージが強すぎて、一見、拝んでいるように見えるのです。
佐野:合掌にせず、他者の手にしたのは自己完結したくないという気持ちからです。人との摩擦で考えたことが制作のきっかけなので。一番薄っぺらい最初の動機、制作のきっかけですが、表面上ではなんの変哲もない返礼の送り合いとかが起きているけれど、その深層では怯えだったり牽制だったりが見え隠れするということ、一見は礼儀正しいことのようで、すごく相手を脅迫しているような感覚を持つことが社会生活を始めてから多くありました。私の場合、そういうことによって支配されること、どこから先が支配になってしまうのかということへの恐怖が大きかったです。
橋本:手を合わせているけれど、後ろが毒蛇になっていて、しかも威嚇している。いつ噛みつくか?噛みにいかざるを得ないか?という緊張状態に見えますし、逆に蛇がお互い噛み合わないようにしようよと手を合わせて伝えているようにも見えます。
佐野:今、規範社会のルールや付き合いの中で、「それでも仲良くしようよ」というメッセージでもあります。「人と人って不気味だな、牽制しあった返礼のし合いが恐いなあ」というのがあったのですが、それが人間だなとも思っているというか、作っているうちにそういう受け入れ方も自分に返ってきているような気がしています。
橋本:蛇というのは、咬む射程距離があるから、これ以上入ってきたら咬まざるを得ないから近づかないで!と言っているようにも見える、あるいは手同士で押し合っているのか、温もりを伝え合っているかもしれないとか、いろんな視点を気づかせてくれる作品だと思います。観る人の心の在り様で意味合いが変わるはずです。
佐野:相手の手の間合いの向こうに、入ろうとしてみないとわからない、そこまでの関係性って限定されるとは思うのですが、愛だったり敬意だったりするものがあって初めてそこから先に進めると思います。尊いことです。
橋本:愛とか敬意という言葉がでましたが、なにかそういう人間の尊厳のようなものも感じる図ですよね。威厳がある。堂々としている。モニュメントのようです。記念碑的な作品となり得ていると思います。
佐野:そして左手がモチーフなのは、私は左手で作っている時間が長くて、それで「物を作る手」の象徴として選びました。
橋本:これは「作り出す手」でもあるのですね。先日、佐野さんの雑誌の取材の立ち合いをさせていただいて、そのときもお話しがありました。「大事なのは摩擦だ」という言葉があって、摩擦によって削られて大理石彫刻は出来上がっていく、人との関係も同じだという話でした。摩擦は悪いことではない、摩擦によって熱も生まれると。
佐野:私は熱量は大事だと思っていて、私自身、熱量高めなほうなんですが(笑)
橋本:熱を生むのには燃料がいるので、佐野さんは摩擦エネルギーで動いてますよね。
佐野:悩みながら、この山の中のアトリエに引き籠りながら制作して、SNSなどで人々の間で起きる摩擦を観察したり、そして自分のまわりの摩擦を受け止めたりしていて。そのことも、あまり悪いことだとは思っていないのです。私といろいろな摩擦を生んでくれた人たちにも、今は感謝をしています。
橋本:二年前にやるはずだった展示内容ですが、発表が今になって良かったですね。延期されて二年間温めて良かったと思います。
佐野:二年前は表と裏とか言っていましたが、今は違うと言っているわけですし。
さいごに
橋本:最後にこの展示を観てくださる皆様になにかメッセージをお願いします。
佐野:私は在りのままの自然な自分で生きていたいと望んでいて、それはエゴなのですが。自分が在りのままでいられないということは本当に苦しいと思います。社会の中で、そのような状況にある人に観ていただきたいです。
人と人ってそんな簡単には分かり合えないです。ですが、他者のファンタジーに思いきって踏み込んでみることによって、無茶苦茶になるかもしれないけれど、それでもそれをしないと本当の意味での希望も訪れにくいと思います。
社会の中で、私たちのような人(コブラのメガネを持ち、心に野犬を飼っている人)もたくさんいるんだということを理解してもらえたら、ちょっとは辛さも紛れると思うし、そういうふうな目線で観ていただけたらいいなあと思っています。